教育基本法を改正すべきだったのか
15日の改正教育基本法の成立を受け、自民党の中川秀直幹事長は「教員再生に全力を傾注し、教員免許更新制の実質導入に努力する」と述べた。中曽根元首相は「日本の歴史や文化や伝統、郷土や国を愛する考え方、道徳とか公の概念、責任が取り入れられ、大きな改革となった」と評価。公明党の太田代表は「さらに論議を深め、教育改革を実現する方向に行くといい」と述べた。
一方、民主党の鳩山由紀夫幹事長は「やらせのタウンミーティングという世論誘導によって法案を上げた。首相に教育を語る資格はない」と批判した。共産党の志位委員長は「教育の歴史に汚点を刻んだ。愛国心を強制し、教育の自由や自主性を奪う。道理もなければ大義もない。数の暴力だ」と反発。社民党の福島党首は「子どもたちを愛国心で統制する改悪法案が通ったことはショック。改悪法を元に戻すべく頑張る」と語った。
国民新党の亀井久興幹事長は「内容についてはすべて反対ではないが、与党単独で成立させたことは大きな禍根を残す」との談話を発表した。(asahi.com)
ついに改正教育基本法が成立してしまった。
いろいろな問題を孕みながら、安倍晋三首相の悲願が一つ、達成されたことになる。いや、少し前には防衛庁を省へと昇格させることも決まっており、日本が「美しい国」どころか「ある方向」へと向かっていく道筋が改めて敷かれたことは間違いない。
確かに、有権者から選出された国会議員が議論をし、多数決で決めているわけで、民主的な手法である。これを「数の暴力」と言ってしまっては、議会制民主主義を否定することになる。
だが、よく考えて見て欲しい。
いまの衆議院議員は、昨年夏の、あの「郵政解散」によって当選してきた人たちだ。つまり、小泉純一郎首相(当時)が、「郵政民営化をするのか、しないのか」という二者択一論法を打ち出し、対抗する側がいろいろな論点を出しても、有権者は単純な方向で投票行動するように誘導された選挙で出来上がった巨大与党。
そもそもが理不尽な解散であった。
もしも、郵政民営化以外のこと、特に今回決めたような教育基本法や防衛庁などを改正すると言うのならば、改めて選挙で世論に問うべきではないだろうか。さすがに、昨年選挙でここまでやられると思って与党に入れた有権者がここまで多いとは思えない。事実、各種世論調査でも、教育基本法への関心は低い。そもそも「長いこと改正していないから変える」と言うのは危険な論法ではないだろうか。小泉前首相の肝入りで始まったタウンミーティングでの問題点が次々に明らかになっている。その中でいま一度立ち止まって考え直さなくて、どうするのだ。何事も、先走りすぎるのはよくない。
いまから6年前、2000年9月29日に、創価大学創立者で創価学会の池田大作名誉会長が発表した「教育提言」がある。最後に、ここから興味深い部分を引用したい。特に注目して欲しい部分を、赤字にさせていただいた。なお、全文はリンク先から読むことができる。
教育提言 「教育のための社会」目指して21世紀と教育――私の所感
創価大学 創立者 池田大作(前略)
一連の教育改革の動きの中で、戦後教育の柱となってきた「教育基本法」の見直しが浮上しているのも、そうした背景によるものと思われます。
首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の7月の報告でも、「教育基本法の改正が必要であるという意見が大勢を占めた」とあり、「前文及び第1条の規定では、個人や普遍的人類などが強調され過ぎ、国家や郷土、伝統、文化、家庭、自然の尊重などが抜け落ちている」との意見も述べられていました。
「国民会議」の報告ではありませんが、そうした欠落部分を補うために「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ……」との「教育勅語」を見直すべきだとする復古調の動きもあります。
ちなみに「教育基本法」の1条では「教育の目的」について、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と謳っております。
この条文は、個人の尊厳に立脚し「人格の完成」を目指すという普遍的理念という限りにおいては、古今東西いかなる人にも妥当する、文句のつけようのないものであります。しかし、「教育基本法」制定の経緯を振り返ってみても、普遍的理念の正当性は、たえず風土や伝統を異にする土俗性という場で検証されなければならず、その点については、日本の教育関係者は、楽観的でありすぎたようです。
その結果、人間は“個”であると同時に“人倫”(人と人との秩序関係)であること、“個”が真の“個”たらんとする、つまり「人格の完成」をめざすための場は“人倫”の中にしかありえないこと、そして、“人倫”を形成していくには“個”は「名月を とってくれろと 泣く子かな」式のエゴイズムをどこかで制御する必要があり、それが人間が成熟することの謂に他ならないこと――こうした当たり前のことを実践していくことがいかに困難であるかが、その自明性ゆえに看過されすぎてきたとはいえないでしょうか。
ひとことでいえば、個性や自由をいうあまり、“個”を“私”へと矮小化させてしまう、人間のエゴイズムというものに対して、あまりにも無防備、無警戒でありすぎました。
戦後の「教育基本法」制定の過程で、「教育勅語」に強く反対し、個人の尊重という理念を教育目的の基軸に据えるよう尽力した森戸辰男氏が「期待される人間像」を打ち出した中教審(中央教育審議会)答申(1966年)の際、その会長をつとめ、戦後の平和教育の見直しなどを強調したことを、変節のように言う向きもありますが、私は、氏なりの反省に基づいた、内的な必然性があったのだと推察します。
先にあげた「国民会議」の「教育基本法」見直しの論議も、大きくくくればそうした流れに沿ったものといえるでしょう。
断っておきますが、私は「教育基本法」の見直しについては、拙速は慎むべきだと思っております。
前文や1条に謳われた理念は、それ自体文句のつけようのないものですし、また、条文に郷土や伝統、文化等の文言を盛っても、それだけでさしたる実効が期待できるとは思えません。
まして「教育勅語」の徳目の復権など、それらが戦前の天皇制、家父長制のもとでどのような役割を演じてきたかを考えるなら、時代錯誤以外の何ものでもないでしょう。
総じて、私は、文部省が音頭をとり続けてきた官僚主導型、政治主導型の近代日本の教育制度のあり方は、そろそろ限界にきているように思います。
戦前の富国強兵であれ、戦後の経済大国であれ、欧米先進国を目標に追いつき追いこせという“キャッチ・アップ”を至上命題としてひた走ってきた近代日本のあり方、そして常にその目標達成のために教育はいかにあるべきかという観点からの位置づけを強いられてきた明治以来の教育のあり方は、明らかに行き詰まっており、工業化から情報化時代への変貌とともに、軌道修正を余儀なくされているからであります。
そこで、私は、21世紀の教育を考えるにあたり「社会のための教育」から「教育のための社会」へというパラダイムの転換が急務ではないかと、訴えておきたいのであります。
(後略)
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